諏訪流放鷹術の歴史

鷹狩りの発祥
鷹狩りは4000年前に中央アジアの遊牧民に発し東は中国、朝鮮半島を経て仁徳天皇の時代に日本へ・・・
西は中近東からヨーロッパ諸国へと広がり、みな2000年近い歴史を有しています。
さらにヨーロッパから北米へ、近年では中南米、アフリカ、オーストラリアと広がり世界的に行われています。

仁徳天皇―酒君(さけのきみ)
仁徳天皇43年(西暦355)と日本書紀に記されている。
「日本書紀」の仁徳天皇四三年の条には
依網屯倉阿弭古(よさみみやけあびこ)が異鳥を捕へ、天皇に献上
 当時の邦人はその名を知らず。
酒君は百済国ではクチと呼び、調教して田猟に用いることを伝える。
       9月朔日 大和の百舌野に放ち雉子を捕へさせたるに始まるという。

酒君塚古墳(さけのきみづかこふん)
大阪府大阪市東住吉区鷹合2丁目6-11
大阪市のホームページ
https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033857.html

諏訪流の系譜
  兼光(百済人の鷹匠)×呉竹(日本人の妻)
     |
朱光(娘)× 源政頼
     ↓
禰津家に伝える
禰津家とは? 清和天皇(850~880)の血筋、禰津流を発す
禰津流三代目 貞直(改め 神平)が諏訪郡領主となり諏訪流を名乗る。

諏訪流縁起 
「鷹 馴らしむること 人の技にあらず」の書き出しで諏訪流鷹書は始まる。
信州諏訪大社の上社に毘沙門天、不動明王の化身として兄鷹(ショウ・小・雄鷹)を
       下社に普賢菩薩、観音菩薩の化身として弟鷹(ダイ・大・雌鷹)を配し
       この四佛が世界すべての鷹匠の祖とした。

社家による鷹狩りは、贄鷹(にえたか)の意味が含まれる。
農作物を害鳥から守る神仏の化身として鷹を祀り(まつり)、鷹狩りによる獲物を神に供え五穀豊穣を祈念した。

諏訪流は後に小林家に伝わる。

小林家鷹(初代)-   徳川家鷹匠 - 再建 - 千駄木(東京)
織田信長より      本郷御弓町        雑司ヶ谷(東京)
「家鷹」の名を賜る   御鷹部屋消失

12月14日は諏訪流放鷹術 初代鷹師 小林家鷹の命日とされる。
墓の所在:長徳山 百萬遍知恩寺 瑞林院(京都府京都市左京区田中門前町)

諏訪流 - 小林十郎左衛門直時
      小林左衛門
      小林五兵衛

江戸幕府瓦解
鷹場制度・御鷹部屋廃止 - 千駄木御鷹部屋から三名が伊達家預かり
鷹匠失職         雑司ヶ谷御鷹部屋。加賀藩前田家借り受け(黒田家、加納氏)

明治新政府(宮内省 主猟局)
明治 6年? 対外接待及び古技保存を目的として鷹匠(小林鳩三氏、坂本氏、他計三名)を招請
明治14年 御遊猟場掛 設置
明治15~17年 浜御苑鴨場(現 浜離宮)、新宿御苑に鴨池開設、再整備を行う。

明治21年 御遊猟場掛は主猟局となって宮内省の一部局となる。
後に主猟寮へ
大正10年 官制改革の際に式部職主猟課
大正15年 埼玉越谷鴨場に鷹匠本部 移設
      鷹の飼養、調教は埼玉県下江戸川筋御猟場にて行う。

小林 鳩三(こばやし きゅうぞう)氏 小林家13代 徳川将軍家直参鷹匠
兵庫県鴨場勤務を経て、宮内省鷹匠となり浜御苑整備に当たる。
後に再び伊達家に召し抱えられる。

小林 宇太郎(こばやし うたろう)氏 小林家14代 
文久2(1862)年 ~ 昭和16(1941)年12月31日没(79歳)
宮内省諏訪流鷹師 
元徳川将軍家直参鷹匠
明治12年(17歳)入省 ~ 昭和4年10月24日 退官
明治12年~17年 浜離宮庚申堂新銭座鴨場、新宿御苑改修。その後、埼玉越谷鴨場を伊藤博文の命により造営、千葉新浜鴨場を明治33年に開設。
明治37年 日露戦争開戦、放鷹調査委員会 発足。
隼による敵軍伝書鳩かく乱に効果を認められる。
明治38年 終戦。小林鷹師、鍋島課長、寮頭、本省事務方、功労を認められ受勲。
大正 8年 勲七等瑞賓章を賜る。
昭和 2年 従七位に叙せられる。菊花紋銀杯賜 3回
昭和 4年10月24日 定年退職
昭和 9年 兵庫県平荘鴨場 嘱託

小林 宇太郎 鷹師(昭和4年11月・談話より)
雑司ヶ谷 鬼子母神付近に吉田流、
本郷駒込付近(千駄木)に諏訪流 先代 小林 鳩三が仕えていました。
『吉田流と違い、鷹が腹の良い時分から仕込み「勢いがあり冴えの出るように」と言うことを眼目として飼う、という特徴を持ちます』
大鷹による雁猟、その他、隼による上げ鷹、抜き打ちによる雁猟、鷂(ハイタカ)による雲雀猟を行い、これらの獲物は陛下・皇室に献上していました。
小さく中空に鳶のように舞っている隼を、下にて麾/采(ざい)、笛にて一里くらいは指揮することができます。
仕込みついては、いまは明るいのでどうしても50~60日かかります。
昔は30日くらいあれば仕上げられました。
鷹の良否は先ず頭の大きいものが良いとされるが、均整の取れていることが第一であります。
「能書き鷹匠になるな!」

福田 亮助(ふくだ りょうすけ)氏 15代 宮内省 諏訪流鷹師
明治34年入省 ~ 昭和21年3月31日定年退職。昭和36年8月22日 没
放鷹調査など小林 宇太郎鷹師の助手として活躍。その後、鷹師として新宿御苑、浜離宮、千葉新浜鴨場、埼玉越谷鴨場を歴任。花見先生の兄弟子に当たる。

坂本 貞生 鷹匠 先輩

花見 薫(はなみ かおる)氏 16代 宮内省鷹匠 宮内省鴨場 場長 諏訪流鷹師
明治43(1910)年10月25日 ~ 平成11(2002)年7月11日没(92歳)
大正13年9月5日入省 宮内省式部職 鷹匠補 浜御苑鴨場 在勤
大正15年 埼玉越谷鴨場に鷹匠本部 移設
昭和 2年12月10日 宮内省式部職 鷹匠 埼玉越谷鴨場 在勤
昭和 4年 小林 宇太郎鷹師(実子無し)退官に際して小林家・家伝「鷹書」を授かる。
昭和16年 埼玉鴨場 在勤 飼付主任
昭和17年 千葉新浜鴨場 在勤 飼付主任
昭和22年 同猟場監守
昭和40年4月1日 宮内庁千葉新浜鴨場 場長
昭和43年4月1日 宮内庁埼玉越谷鴨場 場長
昭和51年4月1日 宮内庁 退官
昭和55年11月3日 勲六等瑞宝章受章
昭和60年 日本放鷹協会 会長 就任
その他
昭和40年4月23日 赤坂御苑 園遊会
昭和45年11月23日 新嘗祭神嘉殿の儀
昭和48年1月12日 歌会始の儀
昭和56年5月8日 赤坂御苑 園遊会   にそれぞれ招かれる。
花見先生の教え 
鷹などやっていると家族を路頭に迷わせることになるから止めなさい。
技は見て(観る、観る、診る)覚える。盗む。良い師匠についた弟子は良い鷹匠になる。
「鷹を主人」と思って使える。
「懐けて、仕込んで、使いこなす」
「しあみ、冴えがあり、丸い鷹」
「据前千人力」「十鷹十色」
「人鷹一体」花見先生が作った造語
※「先生はこう言っていた、こうしていた」「私らはこうした」など事実を話してくれましたが、「こうあるべき」とは言わなかったと聞いています。

据前千人力

墓の所在:行徳不動尊 徳蔵寺(千葉県市川市関ヶ島)

宮内省御猟場
埼玉・江戸川筋:18か町村 (越谷、草加、春日部など)
        鳥害保償料 (他、畑、橋、学校修繕、区画整理)
        ヒシクイ5割、マガン4割、他カリガネ、キクガン、ハクガン
千葉・新浜  :葛南3町 (南行徳、行徳町、浦安及び船橋を半径とする海面6000m)
       GHQ MD弟軍 
       マガン、台風後シジュウカラガン2羽

鷹師一名、鷹匠七名、鷹匠補三名(空きが出ると補充される)
鷹師は鷹匠補を指導し、鷹匠は独立した鷹の担当者(各鷹の部屋の鍵を持つ)

現在の鴨場

埼玉鴨場 (宮内庁)
埼玉県越谷市大林

新浜鴨場 (宮内庁)
千葉県市川市新浜2丁目5

宮内庁ホームページ
https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/shinzen/gaikodan/gaikodan01.html

浜離宮恩賜庭園 庚申堂鴨場 (東京都公園協会)
東京都中央区浜離宮庭園1
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index028.html

宮内省の鷹匠補
宮内省雇員にして、高等小学校卒業程度の者を採用し、鷹匠の下に鷹隼の調教を習練す。
「手空き/てあき」と呼ばれる見習い期間。
鷹を調教することはなく、鷹部屋の掃除、餌つくり、餌となる鳥の世話、おとり合鴨の世話など雑用が主な仕事でした。

鷹の仕込み方は当代鷹師から教わります。
世代によって流派が交替することも・・・
当初は湯飲みを拳に乗せて、鷹を据える練習をします。
次に野鳩に足革をつけ鷹同様に調教するなど、鷹の調教方法を習います。

鷹の調教時期になると、手空きをします。
鷹匠が据え回しに出る際には、鷹匠の前を歩き、鷹を脅かす可能性がある物(人など)を鷹匠に知らせるなどの手伝いをしています。
また、仕事に慣れてくると、忍縄を打ったり(巻く)、鷹匠の鷹を据えさせてもらったり、振替の相手など、仕込みの手伝いを行います。

鷹匠補では、松本 政義(後輩)、高木 薫、井上 一郎、野地と言う名が挙がっています。

宮内省の鷹匠
判任待遇宮内職員に列し、定員は八人、鷹隼の調教及び狩猟に従事す。
鷹匠になると鷹の仕込みを行います。
担当となったオオタカの責任者となります。
初めは良く馴れた(古っ羽)の鷹があてがわれたそうです。
鷹部屋にある担当の鷹の部屋の鍵を持たされています。
※他の鷹匠は触ることが出来ない、逆にあらゆる責任を持つことになります。

鷹匠では、坂本 貞生と言う名が挙がっています。

宮内省の鷹師
宮内判任官に列し、定員は1人、鷹隼の調教及び狩猟に当たり、鷹匠、鷹匠補の指導監督に任ず。
オオタカなどの担当とはならず、主に鷹匠補(後進)の指導を行いました。
また鴨場での鷹匠達の責任者としての意義が大きかったとされます。

他流派ですが、初代 村越 仙太郎?、石崎政五郎(吉田流鷹匠)鷹師、
                   青木鷹師と言う名が挙がっています。
※昭和10年頃 石崎政五郎(吉田流鷹匠)鷹師 鷹を据えて移動中に事故死

忍縄筒にあった名前(漢字は変体仮名&当て字の可能性があるので不明です)
多可喜(高木?)、当戸、福田など
※花見先生の忍縄筒には「は奈美」と彫ってあります。

宮内省に於ける鷹の仕込と猟
大鷹の調教  若鷹であれば秋から、基本的には年を越したものは使用しない。
                    
隼の捕獲 ~ 搬入 10月末に茨城県にて捕獲。捕獲数は10羽。順次鴨場に納入。
隼の調教   順次調教を行う。隼の調教が始まると大鷹の調教は中断する。
隼による猟  1月末に、上げ鷹よる雉猟を行う。終了後、隼は野に帰す。

                     
大鷹の調教  再び調教を始め初鳥飼いの後、雁類、鴨類、鷺類、雉、兎などの各種猟を行う。
大鷹による兎猟 公式猟 6月に富士山麓に出張して行う。
大鷹による鷭猟 公式猟 5月から7月中旬にかけて3回行われる。
塒入り    鷭猟を終えると塒に入れる。
その他の猟
鴨場にて菊栄親睦会、外交団接待鴨猟(2008年現在 約180カ国を6分割・6回)
春・夏・秋の千鳥猟、秧鶏/水鶏/水雉(クイナ)の罠猟、囮雉、追掛雉猟、
雁の無双網猟など

NPO法人 日本放鷹協会
昭和58(1983)年 日本放鷹協会 設立
 ※田籠氏が国会図書館にて放鷹を閲覧中、職員の方の目にとまり、花見先生を紹介される。
  その後、ひとりでは抱えきれないと思い、室伏、篠崎両氏を誘い、話を聞いたとの事です。
平成13(2001)年 法人格を得て NPO法人日本放鷹協会に
令和元(2021)年 鷹匠のまとめ役である「鷹師」(本来は1名ですが、当時は空位)と「鷹匠」(7名)、「鷹匠補」(5名)を中心に前項の会員が実演会や研修会、実際の猟等を通じて放鷹術の研鑽を行っています。
令和4年(2022)年 波多野鷹匠が鷹師に任命され、神内(由)、衣笠の2名が新たに鷹匠が認定されました。また退会された田中鷹匠が復帰し、鷹師1名、鷹匠8名、鷹匠補3名を中心に放鷹術の研鑽を行っております。
文化部では、文化部長を中心に、放鷹の歴史や御鷹場の研究が行われています。
保護部では傷ついた猛禽の自然復帰に向けたリハビリや各保護施設、動物園や獣医との連携(飼育、そもそも扱い方など)を行っております。

日本放鷹協会 創設 鷹匠3名(花見氏認定)
田籠 善次郎(たごもりぜんじろう)氏 東京 17代鷹師を名乗るも2006年に退会
                        2021年1月27日死去(73歳)
室伏 三喜男(むろふし みきお)氏 千葉 18代のちに17代鷹師を名乗るも2016年に退会
篠崎 隆男(しのざき たかお)氏 東京 退会

日本放鷹協会 第19代鷹師
波多野 幾也(はたの いくや)長野 保護部部長 2022年2月20日任命

日本放鷹協会 認定 諏訪流鷹匠
(花見氏認定)
波多野 幾也 当代鷹師
神内 光示(かみうち こうじ)三重 技術部部長 1999年11月3日認定

NPO法人日本放鷹協会 認定 諏訪流鷹匠
(田籠氏認定)
岡村 憲一(おかむら けんいち)大阪

(室伏氏認定)
本田 直也(ほんだ なおや)北海道
井上 道博(いのうえ みちひろ)滋賀 2012年7月8日認定
吉田 剛之(よしだ たかゆき)石川  2012年7月8日認定 
田中 実 (たなか みのる)静岡   2012年7月8日認定 2016年退会、2022年復帰

(波多野氏認定)
神内 由紀(かみうち ゆき)三重 2022年2月20日認定
衣笠 剛 (きぬがさ ごう) 三重 2022年2月20日認定

NPO法人日本放鷹協会 認定 諏訪流鷹匠補
池上 守(いけがみ まもる)石川
中井 雄二(なかい ゆうじ)愛知
小松 廣海(こまつ ひろみ)静岡
尾上 真也(おのうえ しんや)静岡
楠 侑也(くすのき ゆうや)岐阜

鷹匠に認定されてのち、退会された方々(法人格取得以前を含む)
(日本放鷹協会 花見氏認定)
田中 満治(たなか みつはる)氏 山梨
石坂 修一(いしざか しゅういち)氏 長野
高木 利一(たかぎ りいち)氏 福島
佐藤 弘(さとう ひろし)氏 静岡
渡辺 尚(わたなべ たかし)氏 東京

※今村 光男(いまむら みつお)氏 富山小矢部市棚田
 1983年(昭和58年)6月1日花見先生より允許状
 宮内庁方式第17代目鷹匠を名乗る  北国新聞1993年8月20日
                              1998年7月22日 朝刊
 花見先生からは儀式のみということでなら・・・と允許状を書いたと、聞いています。

(NPO法人日本放鷹協会 徳川氏認定)
小張 隆男(おばり たかお)氏 茨城

(田籠氏認定)
遠藤 圭一郎(えんどう けいいちろう)氏 東京

(室伏氏認定)
尾崎 正幸(おざき まさゆき)氏 京都

※退会された鷹匠補については、あえて記載していません。

個別に花見先生に話を聞いていたとされる方々
小林 正人氏 ドイツポインターのHPを開いている。
桜沢氏 花見先生宅に残る口餌籠を制作したと聞いています。

※退会された室伏氏制作の資料をもとに、神内が会の行事などで体験した内容、会内で見聞きした話を加筆しております。

特定非営利活動法人 日本放鷹協会